わたしに「ちょうど良いもの」を。

それぞれのアート

 

 

 

 

 

furniture
は、数えられない。調度全体をさしていうもの。



そうなのかと思いました。



調度のなかにアートも含まれる、ととればわかりやすいなぁと。


アート=調度というわけではなく。



ちなみに
「調度(ちょうど)とは、身の回りに置かれ、日常生活において用いられる道具・家具・その他日用品の類を広く指して用いる言葉。 時代や階層によって対象となる事物は異なる。」
Weblio


ということなんですが、
「時代や階層によって対象となる事物は異なる」
ここは大切かなぁとおもいます。



「いい」とおもうものを側において暮らせるのは素敵なことで。
なにも、既成価値があるものに傾倒しなくても(影響力のあるひとがよしとするものでなくとも)、そのひとが「いい」と思うものを探しあてて、手に取れたらよい。

そのとき、対象となる事物は異なります。



そしてそれが日常空間に置かれることで必然的に生まれる余白、空間、気持ちの余裕、あそびって大切だなと感じてます。
そのひとが「いい」と選んだものはきっと、その人に必要とされる「あそび」を与えてくれるとおもいます。



勿論アーティストはそれを目標・目的にして作品をつくる必要は全くないけれど、
そうなれる可能性を否定する必要もない。



海外から輸入されてきた【アート】はわたしたちが思うより実は元からもっと日常のものだったのかなぁと。


あとは、【モノ】をそのまま手にとってもらうのではなく、ワークショップだとかアーティストの経験をいかした【コト】で日常と繋がることだとかこれまで以上に積極的に行われるようになってきていて
いまは、目に見えてかたちに残るものばかりが【アート】なわけでもない。


時代によって対象となる事物は異なる。
調度にかぎらずなんにでもいえることなんですが。


そもそも人間の主観による定義は宇宙の法則ではないし、
その時代時代で見直されることが許されているのだし、


ここまでもそうだったし、

これからもどんどんと、人間の営みとともに【アート】の営みも変化して、
その意味するモノ・コトも変わるのだなぁと。
むしろ
それが自然なのだなぁと。


日常とアート
暮らしとアート
(かくゆうわたしもそういうテーマで去年末個展をしておりました、はぃ。)


最近よくききますが、

そんなことすら言われなくなる日もきっとくるんだろうなぁ思ったりします。


未来、
そんな時代もあったんだねー
といってもらえていたらいいな。