自分の見かた、他人の見かた。

ひとtoヒト

わたしは自分の関心ごとや、社会に対しての問題提起、解決方法(できても、できなくても)を考えることが面白いと思っている。それを俯瞰してみたり、じっくり考えたり。それらを他者と共有する、対話するということが、わたしにとっては大事なことだ。

 

しかし、わたしの仲のよい友達Aは、そういうことがとっても苦手。わたしは、ついつい、こういうことは大事やん?解らないなら勉強すれば?もっと深く考えろよ!とついつい責めてしまう。そうすると、言葉を上手く使えない相手は黙る。黙って「ごめんなさい、アホなんで解らないです」的な話になると、よけいに腹が立ってくる(笑)アホなのではない、考え方が足りない、視野が狭いだけなんだ。

 

自分にとって苦手なことを追及されるのは、やっぱ嫌だと思う。自分が大事だと思っていることを「社会の問題」とかいう笠を着せて、さも重要なことのように他人に押し付けるのは、なんか違うなと解った。大事な問題というのはひとそれぞれだし。

 

その友達と楽しく話を続けるならば、相手にとって関心のある内容で具体例を出すか、話を分かりやすくするか…こちらの工夫も必要になってくる。(←すでに上から目線、笑)たいていは面倒なのでそんなことをしないけど。大切な関係性ならば、そういうお互いの努力が必要なんだろうな。それは、たぶん友達でも夫婦でも一緒だな。いや、もっと大きな関係性でも、そうかもなー。

 

夫に対してはいつもそうしている。彼が理解しにくい内容であれば、彼にとって身近な話題に落とし込む。彼の仕事に例えると「こういうことでは?」と置き換えをして理解してもらえるように、具体例をたくさん出す。逆の場合も、それを求める。それができない時は、ぐっと我慢して、よい例え話が思いつくまで、粛々とその機会を待つだけだ。大事なひとは、そうやって関係を築いてきた。だけど、そんなふうに努力してもらえる関係は少ない。

 

他の部分で魅力があって仲良くしたいなら、ちゃんと自分が歩みよらないとダメだなーとは、思うのです。でも「自分はこういう人間だから解ってくれ」と一点ばりで、相手の立場に立って別の見方を導き出せないひとはもう無理かな、と思う。

 

「他人は他人を変えられない」「他人は他人のことを理解できない」というのは事実だ。でも、だからこそ努力したいわけじゃない?もちろん、すべてを解りあえるワケではないから、限界はある。この部分は、別の友達が解ってくれるからいいや、とかと諦めることもある。

 

 

表面的に苦手なモノでも、一生懸命、自分の方に引き寄せて、身近な問題に置き換えたり細分化したり、逆に抽象化してゆくと、だいたいが本質的な問題点に辿り着く。それが社会的なものであれば自分に返ってきている、という事が理解出来ないというのは、残念だ。だから本人に起こっていることや、困っている問題が社会がリンクしているということにも、そのひとは気が付かないし、解決だってできない。それは、自分だけでなくて、他人に対しても優しくなのでは?

いつも、いつも、そういう他人の立場にたてるわけじゃないけど。なるべく自分の見方と同時に、相手のほうからはどう見えるか、ということに関心を持ちたいと思う。