見た目?中身?
ひとtoヒト
ずっと考えてきたことの一つに、どうして趣味(センス)が合う人と気が合わず、趣味が異なる人と話すと楽しいのか、という問題。
たとえば、素敵な作品を造る作家さんと知り合ったときに、作品が大好きだから、もっと仲良くなりたいな、と思うことや、見た目(洋服含む)がものすごく好みでも、実際に話してみると、なんだか会話が全然かみ合わない…ということがある。逆に「うーん。この作品、あまり興味ないな」と思うものを作る人や「できればオサレな場所には一緒に行きたくない…」と思うような人と盛り上がったりする(笑)。
もちろんすべての友人、知人に当てはまるわけでもなく、上手い具合にどっちもバランスよく揃っていて、楽しめることもある。趣味も合わない、話も合わないという人はそもそも、最初から友達にはならない。だけど、こんなに趣味も好きなモノも合うのに仲良くなれない、話がつまらないのはナゼ?もったいない!と思ってしまう。
そういう時は、実際にそのひとが本質的な部分で大事にしていることと、自分のそれが大きくズレているんだろうか。また、お互いが素で会話していないから、ということなんだろうか。相手が悪いのではない。いろんな事情が絡まって、素で会話できなくなってしまっている。
なぜ素で会話できないかというと、わたしの場合、素敵な作品を作るオサレでカッコいいひとに対して「ありのまま」のしょうもない自分をさらけ出す勇気がないからなんだと思う。
こんなことを言ったら笑われそう…という構えや、自分が勉強不足のせいで会話がスムーズにいかなくて申し訳ないな、と思ったり。もうその時点で、自分を下に置いてしまい緊張して話せなくなるのは当然だし、その逆だってある。 (たまに相手の勉強不足で言葉が通じないと、カリカリしている自分がいる…ごめん!)
大事な友達とは「目に見えない何か」で繋がっていると思える。作る作品が理解できなくても、洋服が好みでなくても、その人に依存しなくていいのだ。気も合わないのに、一緒にいようと努力したり同じグループにカテゴリされたいと思うこと事態がバカバカしい話だ。だって合わないのだもの。それは解っていても、仕事やお金が絡んしまうと、余計にややこしい。
以前の自分は「自分らしくあるため」という理由で、そういう緊張するお付き会いはもうやめよう!なんて思っていたけど。実際に、カッコいい作品を作るひとやセンスのいいひとが、周りから全くいなくなってみると、それはそれで寂しい…という自分がいることに気が付いた。
わたしは、自分が思っている以上に「目に見えるもの」に左右されているのだ。だから、いつでも素でいられる自分がいいのではなく、ちょっと背伸びして、カッコつける日があってもよいのではないか。そんな自分にとっての心地よいバランスが保てるようになってきた。もうどうしても合わないっていうのは除いて、その場の緊張感を楽しむのもよい。
素敵な作品を造るひと、見た目のセンスが合うカッコいいだけの友人もいれば、何を話しても、下品な自分を赦してくれる、見た目のダッさい友達もいる。(笑)それはそれでいいのだ。ひとりの人間に100%を求めるなんて厚かましい。自分だって欠けた存在なのに、失礼な話だった。