嫉妬の奥底にあったもの

それぞれのRoots

わたしが羨ましいと思うひとは、いい意味で使われる「オタク」と呼ばれるひとたちだ。その内容が、自分もやってみたい、またはやっていることだったりするとそれが嫉妬に変わる。どうしてそのことに、こんなに嫉妬するのかずっと考えていた。
 

 

自分の悩みごとの根っこはどこで作られたか、ほぼ想像できることが多い。だから根っこが解ると解決方法や、自分の囚われの外し方というものが見えてくるのだ。しかし、「何かやっていることが楽しくて仕方がない」「自分を疑わない」ひとへの嫉妬の理由は、いろいろ複合されていることが多い。 

 


ひとつはハッキリしている。 

小学生~中学生時代にわたるイジメが原因で、常にまわりの空気を読もうするようになったこと。子供時代はそこから逃れるように、漫画やアニメーションの世界に憑りつかれオタク(大好きなものであったことも事実でそれを埃にさえ思っていた…自分を防衛する手段のオタクとはそういうものだ)になった。そのどちらも相まって「ひとつのことに没頭すること(自分の価値観だけでモノゴトをみること)=周りが見えなくなってしまう」ことを学習したのだ。だから、何かにハマることが怖いと思うようになり、出来なくなってしまった。極度に客観性がなくなり、周りの空気が読めなくなること、カン違いすることを恐れている。だけど、今は客観性を無視して没頭できるひと(他人の価値観が関係なく動けるひと)に対しての憧れがある。もうわたしは中学時代のようにはなれない。 

 


もうひとつが母親だということに気が付くのに時間がかかった。 

母は仕事が好きで、毎日帰りも遅かった。その罪滅ぼしのように?休日はとても母親らしいことをする。(豪華な料理、旅行、サーカス、動物園…もちろん楽しいフリをするわたし。笑)しかし、こちらが望むことと、とことんズレている。親というものは、たいていそんなものだとオトナになってから解った。しかし当時のわたしが望んでいたことは、そんなことではなかった。だから「自分が注目されていない」と思い込んでいた。(実際に母は今でも他人に興味がないし、相変わらず自分の価値観を他人に押し付ける癖は直らない。) 

 


それと同時に周りの母親が専業主婦やパート勤務である中、母親の職業が自慢だったし、仕事の成果だけでなく仕事ぶりそのものも、クリエイティブで羨ましかった。わたしが嫉妬しているのは、その投影なのかもしれない。怒りと悲しみと羨望が入り混じっている。
 

 

根っこは、このふたつではないだろうか。

だからと言って、過去を理由に没頭できないことを恨んではいない。今は客観性を残しつつ、自分の描きたい絵を描くことが少しずつ出来る自分に戻ってきた。 

だんだん、それでいいと思えるようになった。