古傷のかさぶた/不安定な境界

いろいろな視座

古傷のかさぶたがはがされること。


 

解決ずみと思っていた事柄について、自分が理解しているのと正反対から「~だ」と断定的に意見されてしまうと、途端に気持ちが揺らいだり、傷ついてしまうこと。

 

それについて思うところ。

 

つまりは、自分自身の「癖」なのだと思う。朝起きてから夜寝るまでの自ずと身についた習慣のように。傷つくというのもまた自己防衛の賜物なのかもしれないと思う。

 

もうひとつは、自他の境界の設定ミス。

 

まずは、「癖」について話したい。

 

例えば、自分が攻撃されて傷つくのが嫌だから、相手に同調して解決しようとする、そんな癖があったとする。でも今の自分は、自分の解決方法を持とうと意識的にすごしている。

 

前者(癖、過去)は、食う寝ると同じくらい自然で自分と同化しているもので、後者(今現在)はまだ意図的に身に着けようとしている新習慣で定着はしていない。

 

だとすると、ある場面でマウント気味に断定的に何かを意見された時、先にリアクションとして出易いのは、「相手に同調する」自分。少し出遅れて、新習慣を身に着けようとしている自分は「そうじゃないでしょう」と突っ込みを入れる。そこで、「あ、そうだった、私はもう違うのに」と気が付く。「違う」と気が付いた段階で、落ち込んだり傷ついたりしている気が、わたしはする。

 

後から「悔しい」と思う。本当は私はもう前に進んでいるのに、過去の設定のままだと思われている事実と、その相手の視点を受け入れてしまった事実にどうしようもない居心地の悪さを覚える。その居心地の悪さに気づいているけれど、もう会話は終わっているか、或いは会話の場を離れているから、訂正もかけられない。相手のイメージを正したいと思って居るけれど、今更それも出来ないということは重々承知している。

 

「わかっているのに、わかっていないと思われた」その経験は、遡ると実は親とか先生との間に良く起こっていた気がする。その時常に「自分への評価」がつきまとっていて、彼らの望む基準に達していなければ「だめ」と決めつけられた。実際は違ったかもしれない。彼らが気になった「部分」を指摘していたのかもしれないけれど、幼いわたしにはその部分が自分の全てを負い尽くすように感じて、「自分はだめだ」と思った。そんな記憶がこれまでの36年間の記憶のなかに散らばっている。

 

自分より見た目にも関係的にも「大きな」存在から受けた衝撃の強さ、その印象がずっと自分の身体に残っているというのは不思議だけれど、でもそういうものらしい。少なくともわたしにとっては。

 

最近の経験から私が思うに。ある会話の中でメインの議題となることと、自分に関わる部分―特に自分が問題だと思っているか価値を置いている部分―が相関したとき。自分のなかの問題が、それが仮に9割型解決されていたのだとしても残り1割が拡大鏡によって自分の目の前に大きく映し出されたら。且つ相手がその拡大された1割について、大きな問題として彼なり彼女なりの論説を朗々と話し続けたら。その会話という限定された時間の内部で、まるで未解決のたった1割は、その時間の「全て」のように感覚されるのだと思う。錯覚というか。仮に、9割は自分の中で結論がでていても、その9割が実は1割で、残り1割が9割だった、とか、9割の解決は実は無意味で、まだ問題は10割残っていた、くらいに。

 

本当ならその会話の時間の外で、自分自身で時間をかけてじっくり考えようとしていた事に対して、相手が「それはこうだ。」と言い切ってしまったら。自分はまず面食らうだろうし、横取りされた気分になる。それに、自分にとって大切な残り1割が会話の全体を覆っているにもかかわらず、「話題にはしたけれど実は大したことではない」とこきおろされているようにすら、わたしは感じているかもしれない。

 

でも実はこれ自分の問題なのだということを最近の私は思っていて。

 

自他の境界線をひく、ということを常に意識で来ていれば、ここまで書いたことはなんら問題にならないから。

 

自分と他者は、全く別の文脈にいて、偶々その時点交差したけれど、すぐにまた別ルートを辿ることになると、状況を俯瞰できていれば。自分が心地よく過ごすことの出来る環境をつくるためにつくる意識の境界。例えばオゾン層を良い状態に保つ意識。それがなければ呼吸もできない、気持ちよく地球の中で過ごせない。でもオゾン層は、地球を完全に外部から切り分けてはいなくて、地球の外に出ようと思えばいつでも出ることはできるし逆に必要があれば外から入ることも出来る、そういう「境界」の設定。

 

あちらとこちらでは、数の数え方から見える色から全てが違うかもしれない、それくらいの認識を持って他者と接することは大切なのだと最近ようやく腑に落ちた。

 

それである程度、自分が無暗に傷ついたり、後悔したりということは防ぐことができる。

 

流動的な境界を築くこと。

 

且つ、他人からの自分に対するイメージは、その境界の自分とは反対側に常に置いておくこと。壊す必要も正す必要もなく、ただ自分に触れない距離にそっと戻す。一方で自分は自分と向き合う。

 

多分これって、教育の中で「共感は是」という刷り込みもされてきているから、余計にたちが悪いのだと思う。一時期「共感力」という言葉も流行ったし。別に「共感」を否定するわけではないけれど、「共感、総てこれ是なり」みたいなことではない。自他を一緒くたにしかねない。でもそこを細かく分けて伝えるひとは、これまで近くにいなかった。

 

こういうことに気が付くことができたのは、私の場合うまく境界をつくるひとたちに出会うことが出来てから。わたしを取り込もうとも、呑み込もうとも、逆にわたしに取り入ろうとも呑まれようともしないひとたちに。

 

 

今回は、このあたりまで。
次回、この続きを書きたいと思う。