内藤礼「明るい地上には、あなたの姿が見える。」を観て。

いろいろな視座

2018.10.6の日記



わたしが内藤さんという作家の事を知ったのは約一か月前。今度軽井沢でご一緒するトボさんが内藤さんの展示が水戸であるよと教えてくれて。



なのでわたしは内藤さんという作家についてほぼ知識ゼロの状態で展示をみにいきました。ちなみにわたしは展示を見るときキャプションも説明もみずに作品と対峙したいひとです。


展示には、わたしの子供たちと、あおいのともだちと行きました。そこで起こったアクシデントを通してわたしが感じたことを少し書き留めておこうと思います。


会場には、目を凝らさないと見えないような、ささやかな存在が点在していました。
記号的に同じかたちや配置パターンが繰り返されていました。



その中の一室。一見なにもないように見える部屋。



実はそこには目を凝らして感覚を尖らせないとみえないほどにうっすらと、天井から糸が垂らされていました。

恐らく何が起こったかもう想像はつくでしょうが。こどものひとりがその糸に絡まってしまいました。


わたしはそれによって
「あ、こんな糸があったんだ」
とそのとき初めて気が付きました。



みなさんこのアクシデントをどうとるでしょう。



美術館の監視員はもちろんすごい形相でかけてきて、その糸を紙をつかってこどもから取り外しました。

当然の反応でしょう。


また、それが起こってから、その場にいたひとたちと、その部屋に入ってくるひとたちの振る舞いは、こどもが来る前とは明らかに変わりました。
振る舞いの伝言ゲームのように、そこになにかがあるというのが周りのひとにわかるような
ちょっと大げさなくらいのリアクションを見る人は次に来る人に気づくように意識的にか無意識にか、みせているようでした。(わたしはしばらくその部屋にいて観察を続けました。)


彼女がひっかかったのは、不注意ともいえるかもしれないけれど、偶然で悪気のない行為です。


一緒に鑑賞していたわたしに非があるとも充分言い得る出来事です。
でも入り口ではたしかに「作品にふれないように」との注意は受けましたが
「図面をみながら鑑賞してください」とはいわれませんでした。その部屋に入る際にも、係員はただ立っているだけでした。


内藤さんの作品をみるにはなるほどそういう配慮が必要なのかと、アクシデントがあってきがつきましたが、それなら、


「作品が目に触れにくい状態がありますのでどの部屋も作品がどこにあるのか注意してみてください」
などのわかりやすいアナウンスが入り口でひとことあるだけで違ったんじゃないのかなと。
部屋の入り口にいる監視員は、糸があるということではなくてもどう配慮してほしいかを知らせてもいいのではないかなと、内藤さんに対して予備知識なく鑑賞に入ったわたしはそう感じました。
もしかしたらわたしがひっかかっていたかも。



でもつまりそういう作品なのだということなんだなと。



みようと思わなければ見えない。たまたま、こどもがひっかかったことで、それがどれくらい軽く、やわらかく、繊細か、下手に力をいれたらちぎれてしまいそうな存在なのだ、ということがはっきりとわかった。


しかし一方で、それは内藤さんのしかけた罠のようにもみえたし、宝探しのカギのようでもあって、それでいてその糸は、ただの糸でした。


触れないでみるということ、触れてはいけない存在。神格化された美術館と、神さまのようにあがめられる作品たち。そこにどれほどの意図があるのかないのか内藤礼という存在をおぼろげにかんじつつ、この世界とリンクさせながら鑑賞する人はああだこうだ、ああでもないこうでもないと、ひそひそと作品への意見をかわし合う。


それを聞いていて、ああ、この仕掛けをみて人々は各々の方程式みたいなものを導きだそうとしている様だ。とわたしは思いました。


同時に、答えなどない世界にわたしたちはいるんだなあやっぱり。ということも感じつつ。



不謹慎だろうけれどわたしは、「蜘蛛の巣にひっかかったようだ」と、糸がこどもの髪の毛にふわりとくっつきまとわりついた瞬間そう思ったのでした。はからずも美しい一瞬を目にしてそれはわたしの記憶に焼き付きました。



ひっかかりたいなんて思ってもないのに、ひっかかってしまった、見えない糸を、どこにどうまとまりついているかわからないそれを、一生懸命にとろうとする感じ。鏡を探して蜘蛛の巣を自分からひきはがすあの時の感じ。



その子は、なにがおこったのかわからず、なにが自分にまとわりついているのかもわからず、うごくたびに糸は悪戯にその子に、より複雑に絡むのでした。


触れてはいけなかった…しかし、糸がひっかかった。



美術館だということ、内藤礼さんによって作品化された糸だということそれを抜けば、ただそれだけの、些細な出来事です。そのくらい、ふとした出来事に、こんなにも場がざわつき、行為までかえてしまうということ。アートというものの神格化。特別視。



繰り返しますが、触っていいといっているわけではなく、アクシデントで、わたしがもっと配慮してあげればよかったのだろうということは一方で感じています。


ですが。その子はまるで「異端児」のように扱われそのあと部屋を移動するたび係員が「こどもがいきました」と各部屋伝言ゲームしているそのささやき声をきき、怖い顔をした大人が作品をみているこどもの後ろに一定の距離をとってついてまわる姿をみていて、わたしはなんとも心が痛みました。


美術館という場所。教会、境界、非日常。


あるモノは特別というほどのものはなにもない。


同じものが家にあったとして。
これほどそのものの存在の意味を考えるだろうか、
はたして。


私たち自身の、存在に対しても。ただそれを体系づけたのが内藤礼という作家であり、その作品の置かれた場所が美術館だということで(わたしたちが居るのが美術館だったということで)ありふれたものはこれほどまでに高尚なものに変化するということ。


アクシデントは、引き起こされるべくして引き起こされたものであり、偶然と必然の狭間に起こったことでした。表現するという行為そのものの尊さと美しさを知ることのできた展示でした。



保護者としてわたしは反省し、
作家としてこどもに感謝します。
美術館には申し訳なく感じ、
内藤さんには敬意を。