予測とイメージの枠の外へ。

いろいろな視座

2017.4.19 の日記より

 

 

明日のために、
すこしだけとっかかりをつくっておこう。とおもって始めた釉薬かけの作業。なかなか筆をおけなくて。
「ああ、これすごく懐かしい」と感じた。

 

 

わたしは幼いころからなぜかずっと色彩に憧れを持っていて、それはいまもかわらない。
自分の目に映る色、天気、時間、場所、くるくる変わる色。自分にみえているのとひとがみているのは違うかもしれない、とか想像をして遊んで。とにかく色がすき。
 

大学1年生まではキャンバスと絵の具でひたすら色をおいかけた。
それがいまは土とわたしと釉薬という関係にかわっただけなんだなと。

 

 

ただ、目の前で繰り広げられる「絵の具」のリアクションがそのまま自分から離れずにそこにあるというのと、一度自分の手の中から離れるというのは、わたしにとって大きな違い。

 

一端自分から切り離す=窯に作品を入れることは、強制的に客観視できる地点に自分のポジションをとりなおす、ということになる。
と、同時にものすごく「自分」というのを(意識だとか身体だとか、クセともいえるもの)強く意識もする。

 

 

絵画の作家さんは、一服するとか、部屋を出るとか、遠く離れてみる、ということだけで十分それができてしまうんだろうな。

 

「頭のなかでいろいろイメージを組み替えて、色や構図を決めていくんだよ。」 

 

と、ある作家さんがいっていた。その作業は、わたしが窯に作品を入れる前にいろいろな選択肢を思うのときっと似ているんだろう。
ちがうのは、選択するタイミングかもしれない。
たくさんある選択肢のなかから「自分が」一つ決めて「自分で」具現化することを追求する、
たくさんある選択肢のなかから「窯によって」具現化されたものをどう受け止めるか「自分が」決める。卵が先か鶏が先か、みたいな話だけれど。
窯に対していろんな選択肢を渡して選んでもらうといっても、一応自分なりに一つのかたちのなかで「答え(仮)」を用意して差しだしているわけだから・・・。

 

まあ、結局わたしも、窯が導いてくれた答えをそのままにすることは滅多になくて、寧ろそこから素材と自分のやりとりがより活発になるような気がする。
ここからどうしようか、とわくわくしてしまう。

 

 

わたしにとって「窯」=「予測し切れない」のが、いい。
(だから逆に、こうなる、てわかりきっているところからすこしだけずらしたことをしたくなる。で、予測よりおお~きくそれることもやっぱり多いけど。)
自分の予想とか、イメージできる範疇の「枠」を越えられる。自分が意図しなくても、自ずとそうなる。

それに、手放せるのがいい。「いったん部屋を出る」というのよりも、もっと遠い場所に作品が行ってしまう感覚だから、窯の中に作品をいれるというのは。
1250~1280℃。マグマと同じ温度。絶対に触れることの出来ない温度帯まで作品は旅に出る。火葬だってたしか800℃だったはずだから、それでいったらわたしが「死んでも追いかけられない」温度帯、ということになる。正直、異次元。 


そこから100℃以下まで冷めて、扉が開いて、こちらの世界に戻ってくるまで、1~2日はかかる。眼でも手でも触れられない場所に強制的に作品は隔離されている。 

  

 

自分の枠の外に在るものに出会うというのは、ほとんど他人に出会うこと。だからそれが自分の(過去)作ったものだとして、窯から出てきた時点は、まるで他人事を眺めるようにして受け取ることができる。
自分の中に留めたままの思考・感情と向き合うよりも、外在化させたそれとだと、私は自分自身とのコミュニケーションがとりやすくなる。 

 

 

 

これは子育てにも通じるところが多分にあって。

 

 

大学2年で陶磁に出会い、いろいろあって、大院1年であおいを生んで、それからまたいろいろあって、いまは3人の子育てをしながら、相も変わらず制作を続ける日々。  

 

我が子3人もまた、私の中から外へと抜け出し無事に生還(?)した子たちで。 

自分の身体から生まれた子といっても、わたしのイメージ枠になんて絶対に収まらない。良くも悪くもいつでも期待通りにはいかなくて、それに翻弄されることも多い。ただ逆に、そのわたしの(無自覚に形成してしまっていた)固定観念だとか、凝り固まった感覚を、彼らが無邪気に破壊してくれること自体は、有り難くもある。3人それぞれに全く違う感性で日々全力でぶつかって来てくれるものだから、おかげさまでわたしは(それでも生きていくために…)3人分の視点というのを体得しつつある。広い視野で世界を眺めることができるのは、贅沢だろうと思える。

(それも常に変化しつづけているので正直「3人分」と言い切れない気もするけれど…そうして球体に近い感性が体得できれば御の字)
 

 


時々、この子たちは固着化しやすいわたしの頭や感性を変化させ続けるために派遣されてきたのかも、と思うほど。
まあ、修行に近いものがある。…修行とはっきりいってもいいだろう。 

 

 

というわけで、私の予測もイメージも拒むようなわが子たち&陶磁と生きていると、なんというか「固定化された自分」というのは持ちようがない。常にアメーバのようにゆるりゆるり自分の精神を流動させていないと、逆に自分というものを見失いそうにもなる。アメーバがアメーバの生態でいられなくなったらアメーバではない、といった感じで。
そのおかげで、生きること自体は中学とか高校、大学入学時のころに比べたら随分と楽になっている。
ケセラセラ。「なるようになる」と思えるし、同時に、「なったものを自分なりに見立てること」や、「なったものの活かすこと」の面白さもわかるようになってきた。


 

 

こんな自分になってきているのだから、そろそろ油絵も描けるのだろうかと淡く期待はしているのだけれど。
いまのところ、そこへ戻る兆しというのは自分の中に観られない。


 

でも、陶磁とこの子たちと生きていれば、「予想」や「期待」や「イメージ」は簡単に―良い意味で―裏切られるわけだから、もしかしたら憧れの色彩の世界に絵の具を通していけるかもしれない。
あまり期待せずにその時を待ってみよう。